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『シッラ』はヘンデルの美しい音楽がぎっしりつまったオペラ。「イタリアの美しい音」を音楽堂のすみずみまで届けたい。ファビオ・ビオンディインタビュー by加藤浩子

『シッラ』はヘンデルの美しい音楽がぎっしりつまったオペラ。「イタリアの美しい音」を音楽堂のすみずみまで届けたい。ファビオ・ビオンディ インタビュー by 加藤浩子(音楽ライター)

 

 バロック音楽発祥の国イタリアに生まれ、世界の「古楽」ブームを牽引するリーダーの一人として活躍するファビオ・ビオンディ。古楽オーケストラ「エウローパ・ガランテ」を立ち上げ、ヴィヴァルディの『四季』のような超有名曲から埋もれたレパートリーの発掘まで、幅広い分野に情熱を捧げてきた。2006年と2015年に神奈川県立音楽堂で日本初演された2本のヴィヴァルディ・オペラは、才人ビオンディの真髄を知らしめた名演として大絶賛。来年の2月には、3作目としてヘンデルの『シッラ』が上演される。もちろん日本初演だ。イタリアにおける「古楽」から『シッラ』の魅力まで、古楽シーンをリードする注目のマエストロに存分に語っていただいた。

―イタリアはバロック音楽やオペラが生まれた音楽の国ですが、聴衆の趣味は保守的だという印象があります。そのようなイタリアで「古楽」ブームを担われていますね。

 イタリア人はオペラを愛しているのですが、決まった作曲家の決まった演目を好む傾向があります。主に19世紀の、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニといった作曲家の有名作品ですね。バロック・オペラやマイナーな作品は、フェスティバルでの上演ならいいのですが、ふだんの劇場のレパートリーにはなりにくい。

 でも、私の前にも「古楽」に関心を持ったイタリア人アーティストはいました。パイオニアは、1970年代にボローニャの歌劇場でヴァイオリン奏者をしていたルイジ・ロビーギです。ちょうどヨーロッパで古楽ブームが起きていて、レオンハルト、アーノンクールといったアーティストが活躍しており、彼らの影響が大いにありました。

―ビオンディさんの「古楽」との出会いについて、具体的に教えていただけますか?

 1976年に、レオンハルトとアーノンクールの『マタイ受難曲』を聴いたことはとても大きかったです。ルーティンの演奏に限界を感じていたので、作曲家や時代が何を求めていたのかを考え直し、フレージングやアーティキュレーション、デュナーミク、様式などをきちんと追求するべきではないかと思い始めました。それが自分にとっての古楽のスタートです。今の古楽界はちょっと新しいものを追い求めすぎて、アナーキーになっている傾向がありますが、重要なのは「作曲家」であり、演奏家の自己表現ではないことを忘れてはいけません。

イタリア人の個性は「美しい音」の追求 
―「古楽」を追求するにあたって、お手本にした方はいますか?

 基本的には仕事と並行して、つまり研究が進んでいる団体で演奏することで学びましたが、「師」と言えるのはエンリコ・ガッティというヴァイオリニストです。彼は「イ・ムジチ」のメンバーでした。「イ・ムジチ」は古楽の団体ではありませんが、私たちの「エウローパ・ガランテ」との共通点はあります。それは「美しい音」の追求です。それこそイタリア人の個性なのです。

 「古楽」というと、「音が美しい」という印象はあまりありません。けれど私たちイタリア人は、丸く、やわらかく、暖かい「イタリアの音」、「美しい音」を求めます。それは楽譜から読み取ることができる。私たちイタリア人ヴァイオリニストの先達である大作曲家、コレッリもジェミニアーニもヴェラチーニも、みな「美しい音」を奏でていたはずです。

『シッラ』はヘンデル初期の美しい音楽の集大成
―音楽堂でのバロック・オペラですが、これまでの2回はイタリア人のヴィヴァルディの作品、『バヤゼット』と『メッセニアの神託』を取り上げられました。

 『バヤゼット』は、ヴィヴァルディの充実期に作曲された作品です。キャリアの晩年、1730年代に書かれていますが、ヴィヴァルディは当時自分が時代遅れになったと感じていて、様式を変えようとし、それに成功して音楽がとても豊かになった作品なのです。『メッセニアの神託』も充実期の作品で、彼のヒットパレードのような作品ですね。

―なぜ今回、ドイツ人でイギリスに帰化したヘンデルの『シッラ』というオペラを選ばれたのですか?

 ヘンデル初期の美しい音楽の集大成といえるオペラだからです。ロンドンに来て『リナルド』で最初の大成功を収め、神のように崇められていた、ヘンデルの幸せな時代の作品でもあります。楽譜もほぼ残っていて、第3幕の海での嵐のシーンなどほんの一部の欠落はありますが、ヘンデルのほかの作品から転用して補うことができます。ヘンデルには『ジューリオ・チェーザレ』など有名なオペラもありますが、今の聴衆は知的だし、聴衆の方の立場からしても、色々なレパートリーを知る方が面白いのではないでしょうか。

 上演時間が2時間と短いのも、聴衆にとっては利点なのではないかと思います。上演中に飲食やおしゃべりをしていた当時と、舞台に集中して聴くのが当然の今では、聴き方が違います。ヘンデルの他の有名オペラだと、4時間も集中しなければならない。『シッラ』は短いけれど美しく、カットしないで上演できる理想的なオペラです。

 『シッラ』が短いのは、劇場のために書かれた作品ではないからです。おそらくバーリントン邸での私的な催しのために作曲され、招待客だけが聴くことができた。台本がやや乱暴なのは、そのせいもあるのではないでしょうか。けれど音楽はとても充実しているので、大半が『アマディージ』というオペラに転用され、一般の聴衆に開かれたのです。

 2017年にこの作品を初めて演奏し、録音もしましたが、「音楽が美しい」と絶賛されました。

―今回は彌勒忠史さんによる演出がつくのですね。

 ええ。彌勒さんとは『メッセニアの神託』で共働し、とてもうまくいったので今回もお願いすることにしました。小さなオペラですが、場面を作る時には色々な効果が必要だし、スペクタクルな部分もあります。最後のどんでん返しがあっという間に起こってしまうなど物語にわかりづらい部分があるので、それを補う意味でも演出が重要ですね。シッラが独裁者であることを、聴衆にわかってもらわなければなりません。「権力のおかしさ」を見せなければならない。そして最後にたどりつくのは「愛の勝利」です。日本ならではの演出も取り入れられたらと思っています。

―初演の時はカストラートが歌った役は、女性が歌うのですね。

 ええ。カウンターテノールを使う指揮者もいますが、カウンターテノールはいわば現代の発明。女性の声のほうがファルセットを使わない分「自然」だし、カストラートの声に近いと考えます。最後のカストラートだったモレスキの録音が残っていますが、女声のように聴こえますよ。

―バロック・オペラでは即興や装飾がとても重要です。

 そうですね。バロック音楽の価値はそこにあるのではないでしょうか。以前はバロック音楽は退屈と思われがちでしたが、今は即興や装飾が復活したおかげで面白いと受け止められています。

 ヘンデルの時代のカストラートは、歌手の即興や装飾をすべて自分でやっていましたが、書かれた時代や場所によって即興のやり方、様式が違うので、どこでどんな風に書かれたかということまで考えなければなりません。ですので、70%は私が考えます。楽器の装飾や即興については、その場でやります。お楽しみに!

my hall myself

私にとっての神奈川県立音楽堂
 音楽堂は劇場のサイズも、歌手とオーケストラが同じ高さで演奏できて完璧な一体感が得られる点でも当時の劇場に近い空間です。音響もとてもいいので、歌手の丸くてやわらかい声がすみずみまで届くところも気に入っています。モダンな劇場は大きすぎるし、オーケストラがピットに入ってしまうと、声が大きいことのほうが重要になってしまう。それでは、声の「すべて」を届けるのは難しいですからね。

「神奈川芸術プレス」Vol.150(2019年9月15日発行)表紙・巻頭インタビュー「Creator’s Voice」より転載
取材・文:加藤浩子 撮影:藤原亮子

湯山玲子(著述家、プロデューサー)

仕組まれた日本&東洋趣味が示す「美意識の拘束感」 湯山玲子(著述家、プロデューサー)

 

2020年のただ今、世界で最も人々の関心を集めているのは、コミュニケーションの問題だ。教育の現場ではこの重要性が掲げられ、本屋のビジネス書棚にはコレ系の書籍がてんこ盛り。北朝鮮とアメリカ、日本と韓国、EUとイギリスなどなど、「話しても平行線」という現実に絶望しながら、いや、それだからこそ、我々はコミュニケーションを強く欲するのである。およそ、芸術にはそれを生む時代背景というものがあって、この『サイレンス』は、まさにコミュニケーションと一言で言う存在の不確かさ、もどかしさ、不思議さを訴えてくる。川端康成の恐ろしく切れ味の良い恐怖譚(本当にこういう作品の後に誰が小説家を志せるのか?! という一篇だ)の上に浮き彫りになるのは、どんなにわかり合ったと思っても、セックスでたとえ一体感を得たとしても、「相手の考えていることは絶対分からない」という事実。すなわち、川端康成が描いた『無言』であり、このオペラ『サイレンス』。この秋冬、人々はラグビーでワンチームという一体感を称えたが、その狂騒はすなわち、「誰もわかり合えない」というコミュニケーションの不都合な真実を人々は本当は知ってしまっているからだろう。

病の後遺症で口頭でも筆談でも言葉を発しなくなってしまった老作家を巡る、実の娘と来訪者が繰り広げる不穏のようでいて一種の安息状態、なおかつつかみどころの無い世界は、難解どころかズドンと観客の胸に直球で打ち込まれる。「このどうにも変な関係の世界は、実はワタシはすでに知っている」という不思議な共感覚に最も与しているのは、アレクサンドル・デスプラの音楽。思えば彼の名を一般に知らしめた『シェイプ・オブ・ウォーター』も、人間と半魚人との、「フツー恋愛なんてあり得ないでしょ! 」という異種間の恋愛交流の物語。愛、というコミュニケーションの紋切り型を良い意味で脱臼させていたデスプラの音楽は、このオペラにも一気通貫している。

さて、オペラとしての音楽に注目すると、物語の牽引役、タイトルロールの来訪者役にはバリトンを持ってきている。かつてマイクの無い時代に大劇場の大バコで育成されてきたクラシック声楽は、実のところ、ディテールやテクスチャーが求められる現代のデリケートで心理的な表現には適さないのだ。(岩松了の演劇に劇団四季のメンバーのミュージカル発声が入ったらどうなるか、という話)そのバリトンの来訪者が。まず初っぱなに不安や浮遊感のようなものを、かそけき声の中に醸し出すようなハイトーン(もちろん、彼の声域ではない)で歌っていたことにまず、興味を引かれた。そのアリアを経て、来訪者はどんどん本心を露呈するがごとくもともとのバリトンに戻っていくのだが、デスプラがオペラを目論んだとき、その「およそ、現代的ではないクラシック声楽」の「置き方」に心血を注いだことが読み取れる。このあたりは、この作曲家の「クラシックのお約束」に思考停止になってしまわない、批評性の発露だろう。

意外だったのは、音楽や演出における、「今の時代、こんなベタで大丈夫か?」という演出や音楽のジャポニズムと東洋趣味。音楽はミニマルを軸にしているが、日本の旋法の多用、数人の楽器奏者が同種の楽器を扱うという雅楽のスタイル、三味線のような弦のピチカート、篠笛のようなフルートや太鼓が加わって、いわゆる現代音楽に一ジャンルを築いている、日本と東洋的なモチーフとエッセンスが色濃い。演出にしても、スクリーンにもなる巨大な引き戸とそこに撮される映像、後ろを向いて寝っぱなしの老作家(まるで庭石のようにも見える)とこれまた、日本がお得意の桂離宮アンド無印良品なミニマリズム。演奏家達は舞台のホリゾント近くにまるで歌舞伎の出囃子のような位置に坊主頭に袈裟姿で鎮座している。

しかし、これらの「ちょっと盛り込みすぎじゃないか?」という杞憂は、オペラの進行とともに払拭される。実は聴覚と視覚でガッチリ構築された日本&東洋趣味はベタで重厚だからこそ、息苦しく、囲い込まれたような「美意識の拘束感」の方を強く発現してくるのだ。そんな東洋趣味のある意味「茶室」の中のような異世界で、作曲家デスプラのディテールに沿った音の情感が爆発。不安なヴァイオリンのリゲティ的な16分音符の上昇、老作家を世話する娘・富子のソプラノソロには、ヴィヴラホンの官能的な響きが添えられて、彼女の隠された女性の情念を表していく。ミニマルな構造の中に、ドビュッシー的な和声感やフレーズの香華が差し色のように入っていく様は、この作曲家の才気と呼ぶべき魅力だろう。
「一生におびただしく、まことにおびただしく書き続けた言葉よりも、『ミ』とか『チ』とかの一字の方が、秋房の名言であり名文である、力を持つかもしれない」という来訪者の思考は、原作の中で二度登場し、物語のキーになっているが、それはまさに「音楽」の本質の言い換えであり、その核心が前述した「美意識の拘束感」に立ち上がってくるところがこのオペラの醍醐味だと思う。

ミニマリズムに徹した、ピエールパオロ・ピッチョーリの衣装は、もはや舞台演出の一翼のような色彩説教が素晴らしい。タクシーの運転手、語り部、来訪者など、実世界を背負う者たちの色彩は、薄茶と灰白色の今、女性誌などで流行色として取り上げられることが多い、都会的すなわち人間的なグレージュカラー。対して、老作家と娘は白衣と黒衣。グレージュの中にこの色が立ち現れると、その強烈さに改めてびっくりする。(かつてパリコレを震撼させたコムデギャルソンの衝撃はコレだった! )劇中、近親相姦的な彼らの関係を匂わせる演出もあり、白黒の「異界」的な際立ちは、父と娘の底知れぬ関係を表徴している。演奏者の袈裟は、チベット仏教の砂絵のような、パステル系の配色で、それはまた、デスプラの音楽の色彩感のようだ。

それにしても、川端康成文学の何と音楽的なことよ! 全体の物語よりも、強力に印象的な「創作者と創作物の問題を提示する、白紙の原稿用紙を自分が書いた小説だと言って母親に読ませる精神病患者」のエピソードの存在などは、部分が逸脱して主客が転倒するマーラーの交響曲のよう。実際に幽霊が登場するエンディングの部分は、来訪者と運転手の会話のそっけない16行だけで、莫大なイメージをつくっていく。川端の恐怖短編集には、主人公が若い女性から一晩片腕を預かる「片腕」のような、恐怖と官能の話もあり、こうなったら、デスプラ×川端康成オペラとしてシリーズ化してもらいたい、と思うのです。

湯山玲子(著述家、プロデューサー)
著作に『女ひとり寿司』 ( 幻冬舍文庫 ) 、『クラブカルチャー ! 』( 毎日新聞出版局 ) 『女装する女』 ( 新潮新書) 、『四十路越え ! 』( 角川文庫 ) 、上野千鶴子との対談集「快楽上等 ! 」 ( 幻冬舎) 。『男をこじらせる前に』(角川書店)等。テレビコメンテーターとして、NHK「ごごナマ」等のレギュラー、TBS「新情報7days ニュースキャスター」等に出演。クラシック音楽の新しい聴き方を提案する、「爆クラ」主宰。DJジェフ・ミルズ×東京フィルハーモニー交響楽団の公演、名古屋愛岐トンネル群を使ったコンサート等をプロデュース。ショップチャンネルのファッションブランドOJOU(オジョウ)のデザイナーとしても活動中。

青野賢一

見えないもの、聞こえてこない言葉を考える 青野賢一

2019年2月にルクセンブルクで世界初演、同年3月にパリ初演を成功裡に終えた『サイレンス』は、『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)や『シェイプ・オブ・ウォーター』(2018)の音楽を手がけたことで知られる作曲家、アレクサンドル・デスプラの初となる室内オペラ作品である。原作は2019年に生誕120年を迎えた川端康成の短篇小説「無言」。「無言」を収録している東雅夫が編んだアンソロジー『文豪怪談傑作選 川端康成集 片腕』(ちくま文庫)によれば、初出は『中央公論』1953(昭和28)年4月号で、小説家としてのキャリアの中期に執筆されたものだ。

66歳の小説家・大宮明房は病(おそらく脳の病気)を発症したことで、言葉を話さず、左手はかろうじて動くものの右手が麻痺してしまい、文字を書かなくなってしまった。その大宮を、大宮より20歳あまり年下のやはり作家の三田が自宅へ見舞いに行くというのが「無言」の極めて大雑把な内容である。物語は三田の目線で進んでゆく。

「無言」は大きく分けて3つのパートからなる作品である。まず最初は三田が大宮宅に向かうタクシーの中。鎌倉に住む三田が逗子にある大宮の家に行くには、トンネルを通らねばならないのだが、「トンネルの手前に火葬場があって、近ごろは幽霊が出るという噂である」。タクシーの運転手によれば、逗子からの帰りの空車に女の幽霊が乗ってくるのだそうだ。「いつ乗るのかわからない。運転手がなんだか妙な気がして振りかえると、若い女が一人乗ってるんです」。夕方4時頃、大宮の家に着いて、大宮の長女・富子と三田が寝たきりの大宮のすぐそばで話を始める。これが2つ目のパート。最後に、大宮の家を辞して、逗子から鎌倉へ帰るタクシーの中の出来事でこの小説は終わる。

『サイレンス』は原作の「無言」にかなり忠実なストーリー展開である。原作では三田が大宮の家にタクシーで向かうパートの前には、大宮を見舞った際に三田が伝えようと思っていること––––左手が少しは動くのだから、身の回りの用を言いつけるのに左手で片仮名を書けばいい––––が地の文で記されているが、オペラでは語り部がそれを担う。アンサンブル・ルシリンが奏でる音楽はといえば、幕開けの弦楽器と木管楽器によるどこか不安げで挑発的な旋律に続けて、「伝える」という決心を示すように和太鼓と思しき打楽器がスネア・ロールのように鳴らされる。続くタクシーの中の場面では、冒頭の不安げな旋律が再び顔を出して、幽霊話を引き立てている。

原作に比べて、より緩急をつけた描写を採用している大宮の家のパートは特筆すべきところだろう。大宮宅に到着して、三田が富子に鎌倉のトンネルの幽霊の話をし、次いで富子が父が寝たきりになってからよく思い出すという大宮の手になる小説「母の読める」のことを切り出す。「母の読める」は、作家志望の青年が精神を病んで入院し、「ペンやインキ壼は危いし、鉛筆も危いというので、持たせられませんでしたが、原稿紙だけは病室に入れてもらいました。その人は始終原稿紙に向って書いていたんですって……」というもの。書いていたといっても原稿紙は白紙のままなのだが、これを見舞いに来た母に見せ、「お母さん、読んで聞かせて下さい」とせがむ。母は考えた末、その青年の生い立ちをあたかも原稿紙に書かれているかのように話すことにした––––。原作ではさらりと会話の一つとして扱われているこの部分を、『サイレンス』では、デスプラとともに台本も手がけたソルレイ(ドミニク・ルモニエ)が大胆に演出、印象深い場面に仕上げた。青年の切迫した様子、母の悲しみと慈愛の入り交じった気持ちを伝えるスリリングなスコアも素晴らしいシーンだ。

『サイレンス』が見事に描き出した先の挿話からも明らかなように、「無言」を貫いているのは、「見えないもの」や「聞こえてこない言葉」をどのように考えるか、ということだ。ものを言わず文字も書かない大宮の心中を、三田と富子はあれこれと推測するわけだが、その推測が正しいかどうかは誰にもわからない。大宮は二人の会話を聞いているので正解か否かの判断はつけられるけれど、いかんせん伝えるすべがないし、わずかに動く左手を使って伝えようともしない。この一方的な解釈の空回りは、ポーの「大鴉」でカラスの発する”Nevermore”というフレーズを持てる知性と理性を総動員して解釈し、勝手に狂ってゆく男を想起させはしまいか。

そう、すべてはイマジネーションの産物なのであって、現実派で合理的な考えの持ち主である三田には、帰りのタクシーに出た幽霊が見えないのも道理なのだ。『サイレンス』は、こうした原作の持ち味、面白さ––––想像力を働かせて答えを導き出そうとしても常に不明の宙吊り状態に立ち戻ってしまう、けれども想像することをやめられないという実に人間的な営み––––を歌唱、語り、演奏、スクリーンに投影される映像を通じて見事に描き切ったといえるだろう。デスプラは『犬ヶ島』(2018)で邦楽楽器を導入した映画音楽を披露してみせたが、『サイレンス』では邦楽のエッセンスを漂う空気のように配し、フランス語の歌唱や語りとの絶妙なバランスを実現することに成功した。演奏家の衣装やミニマルな舞台装置も含め、抑制の効いた、それゆえにイマジネーション豊かな作品である。

  • 青野賢一 プロフィール

ビームス創造研究所クリエイティブディレクター/BEAMS RECORDSディレクター/文筆家/DJ

1968年東京生まれ。株式会社ビームスにて販売職、プレス職などを経て、現在は個人のソフト力を主に社外のクライアントワークに生かす「ビームス創造研究所」に所属。また、1999年、音楽部門〈BEAMS RECORDS〉の立ち上げに参画しディレクターを務める。ファッション、音楽、美術、文学、映画などを多角的に論ずる文筆家として『CREA』(文藝春秋)、『ミセス』(文化出版局)、「音楽ナタリー」などに連載を持つ。1987年よりキャリアをスタートしたDJでは、クラブ、ラウンジ、様々なレセプションパーティーやイベントにて、ジャンルレスかつタイムレス、それでいて独特のオブスキュアなムードを湛えたプレイを披露し、評価を得ている。